漫画論(ロジック編)

漫画論(ロジック編)

漫画論、国際交流、思い出、それにくだらない話からオカルトまで、様々な「気づき」を綴っていきます
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歴史は繰り返される。






終戦頃
枯渇した資源の中、少年たちの心をつかんだのは
紙芝居だった。



紙芝居は紙に描かれた絵的な情報を演者の演技によって劇的に展開され、
また狡猾とも言える様々な「間」の取り方で
次にくる新しいコマ、つまり次ページとなる新しい絵につなげて
物語を構成して行く。




これは演者の演技能力がその作品の面白さを大きく左右し、
ある意味、落語のそれにも近い芸術性を秘めていた。




紙芝居の演者は視聴者である子供達の反応を機敏に見抜きながら、
次回に出てくるだろう新たな絵やストーリー展開に対するドキドキ感を
最大にまで高め、間、溜め、急展開、制止、など
あらゆる方法と演者の音声による多重効果で子供達の心を翻弄し
引き込んで行った。





しかし、

時代は資源の復活と共に、紙芝居、貸本の時代から、
商業誌としての月刊誌、週刊誌の時代へと移り変わり、
紙芝居に代表される漫画的娯楽は
集団や共有といったものから
個人の娯楽へと変化して行った。





この段階で紙芝居から漫画という表現への移行で
視聴者(この場合読者)が失ったものは




先にも言った、紙芝居演者による臨場感あふれる音声であり、
演者と視聴者との双方向の間合いであり、
作品終了後に交わされた両者のニーズや次回公演などの情報交換。
そして、絵そのものが動き震えるなどの視覚効果であり、
それはまさに現代で言うところのソーシャルネットワークであったり
オーサリング技術等によるデジタル効果だった。




この一事だけをみると、
現代の漫画界が進んでいる状態とはまさに真逆
逆行した状態とも言える。





昨今のスマートフォンやipadの台頭で紙媒体としての漫画は
出版不況という具体的な形とともに減少傾向が目覚ましく、
その表現土俵は徐々にデジタルと言うある種、
紙芝居的な多機能表現へと移行し始めている。




つまり時代が再び逆流し始めたのだ。






今回のケースで指すところのデジタル表現は
フリックやスワイプで展開される
タイプのデジタルコミックを指している。

未だpdf形式で捲り型の漫画の見せ方は指していない。


その上であえてスワイプタイプで言及すればの話だが、
唯一の違いとして、昔は共有物としての娯楽だった紙芝居が、
今回は個人の娯楽としての紙芝居的漫画という立ち位置となった事だろうか。


ともかく、昔の読者にとっては
マガジンやサンデーなどの商業誌の台頭により
紙芝居が持つ多機能生の楽しみを失っていったかわりに

自分の間やタイミングで物語を進めて行くことができる自由を手にし
その自由は、同時並列的に進む連続ゴマに対するスピード感や
見開き、引きゴマに代表される漫画独特の表現手段を開花させて行った。


そして、その一方、紙芝居では演者が演出していたいわゆる『間』を
『間コマ』として漫画内における一つの約束事として
定着化させて行くことに成功する。



実は
現代の紙媒体からデジタルへ移行するに当たって
もっとも作り手側が留意しなければいけないのが
この『間コマ』の取り扱いだと言え、
それがかなり重大な意味を持っている。


ここで後に誤謬の起こらないように明記しておくと
いわゆる漫画の中で扱われる「間ゴマ」にはいくつかの役割において
グループ化して類別することができる。



例えば、

①単純にエピソードの切れ目を告げるため、空などでよく表現される間ゴマ。

②連続描写による長時間の経過を表現するため効果としての間ゴマ。

③ストーリーのクライマックス等を盛り上げたり、抒情感や作品の雰囲気をを演出するため間ゴマ。

④キャラクターが話すセリフのタイミングや溜めを調整するための間ゴマ。



中でも最後の
④「キャラクターが話すセリフのタイミングや溜めを調整するための間ゴマ」は
戦後、長い年月を経て現代に新しく蘇ったデジタル「紙芝居]にとっては
既にその役割は過去のものとなりつつある。



自らの任意で物語の進むタイミングを自由にできることを手にした読者には
本来「見開き」で進むタイプの漫画で言う所の、
コマとコマの間に存在した行間そのものが無意味化し、
逆にコマ単位で見せるタイプのデジタル作品上では、
作品を読み進めて行く上で邪魔な存在となってしまったのだ。


漫画のデジタル表現に関しての進化論的話の帰結としては

我々漫画家、つまり表現者自身の進化も
問われるという結果につながる。


過去に蓄積してきた技術、見開きの構成や引きゴマ等の
あらゆる漫画的技法は勿論だが、その上に
新たな生き残りをかけて、新しい表現方法の発明が
急務だといえよう。

今はその新しい表現的発明が
「雨後の筍」でもいい。

歴史を振り返っても、
いずれは大きな一つの形に納まることは間違いないのだから
ガラパゴス諸島の生物のように
今は多様化しその種を残すことこそが
大切なのだ。





今から振り返ると
紙芝居、貸本、商業誌、デジタルと大きな表現の
波に立ち向かいながら今も活躍されてる
先人達には本当に頭が下がる。




佐佐木あつし






















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昨日お伝えした「電人ザボーガー」!!見ました!!


もう、リアルに見ていた年代としては
たまらない、遊び心たっぷりで

あの時代のチープな主人公の性格付けや
オーバーアクション、泥臭い人間関係の設定など
当時とそのままにきれいにリメイクされており、
今までリメイク作品として作られてきた「デビルマン」や「キャシャーン」「ヤッターマン」等とは
一味もふた味も違う作りになっている。



(当時から注目を集めたヘンテコなギミックw蓮舫さん・のりピーにも注目www)


表現にしても当時をしのばせつつ。
現在のCGをうまく使って
ザボーガーがバイクからロボットに
無理やり可変するという無茶苦茶さが
ごり押し的に納得できる。よくできた作りになっております。




ストーリーにちりばめられた
当時はなかったヘンテコな(w)ギャグも
人それぞれでしょうが
佐佐木的にはギリギリOKラインで

本来「電人ザボーガー」自身が持っている
当時でもギャグとしか見えなかった荒唐無稽な世界観や
愛すべき陳腐さを包んだギミックは

逆にこの「電人ザボーガー」では
お約束ばかりで作られ起伏の少ない作品が蔓延する
今の世において、ある意味適度な時代風刺ともなって
許せてしまう気がする。

佐佐木的には
かなり大満足な作品だった


当時「電人ザボーガー」にしびれた元少年も
「電人ザボーガー」の「で」の字も知らない
現在の少年たちも共に見れる稀有の作品ではないだろうかw


『電人ザボーガー』公式サイト














タグ : 佐佐木あつし AtoC 電人ザボーガー

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 漫画の基本はキャラクターである。


これはもはや周知の事実であり
また、原則の一つでもある。

しかし、今、弟子や塾生に
教えてる事はキャラクター不在の
ストーリィー構築法。


例えば、昨日の記事なども一つだが、

あの記事には主人公の名前が出てこない。

当然、ブログなので
主人公=ある一人の男=佐々木
という図式は成立するモノの
別段そこに大きな意味はない。

ストーリィーは何かと言えば

「ある男が海にサイクリングに行って
 煙草を吸った」


と言うだけの話である。


この別段なんて事の無い
たった2行で済んでしまう話を
読者に対し、どうやって面白く読んでもらうか?


これがストーリィー作りの根幹であり
基本なのだ。


その手法は実にさまざまで
プロはこの
「ある男が海にサイクリングに行って
 煙草を吸った」と言うだけの話から

ミステリから恋愛果てはSFまで
あらゆる展開をする事が出来る。

例えば
主人公が事務所を出て行く前に
アシスタントがその男に対して
殺意を抱くようなイメージのワンシーンがあったらどうなるか?

優しくサイクリングを進める
アシスタントが渡す二本の煙草。

サイクリングの途中
サンバのリズムを耳にして
ふと昔のミステリ小説を思い出す主人公

それはリオのカーニバルの最中
煙草を吸った瞬間に突然死する男の話

「あれは確か煙草に青酸が仕組まれていたんだっけ」
とつぶやく男。

「まさかね」と
自分の妄想を否定するかのように

最後に海を見て煙草に火を付ける主人公・・・


事務所では
にこやかな顔のアシスタントが
鼻歌を歌いながらビールを冷やしてる・・・


青空にウミネコ、
波風の音が遠く鳴り響く…








どうでしょう

少しエッセンスを海外風からミステリ風にアレンジしただけで
なんて事のない話が大きく変化する。



SF風なら
「ギシギシなるペダルの音が
 実は黄金律の比率でなる自転車であり、
 それがもたらす不可思議な一点透視の世界・・」

恋愛なら
「一瞬すれ違いざまに抜いて行った
 自転車に乗った女性は昔愛した女性に似すぎていた・・
 実は二本の煙草に込められた男の願掛けとは・・」

ホラーなら
「サンバチームの中に一人違和感のある人物
 事務所にいるはずのアシスタントと同じ姿をしているが完全なる別人
 しかも、悪意を持ったその目は人間のものではなかった」


なんて事のない話にちりばめられた
一つ一つのアイテム、人物、事象
全てが小道具として機能させる事が出来る



オチは必ず煙草を吸わせて終わらせるのはもちろんだが
中身が違えばオチから受ける読後感は
それぞれ全く変わって来る。


主人公の性格よりストーリィーの流れの方が
優先される。

これがお話作りの基本であり、
そこで初めて主人公の性格付けが
単なる小道具の一つとして準備される。


キャラクター優先の話の作り方とは
ある意味相対的な作りともいえるだろう。

逆に言えばこの相対する
話の作り方二つを知っていなければ
奥行きのある話を作るのは難しい。



昔、母親にせがんで聞かせてもらった
お伽話・・

「昔ある国に一人の王女様がいました、
 そこに一人の悪い魔法使いが現れて・・」

「王女様ってどんな人?悪い魔法使いっておじいさん?おばあさん?」


話を進める母は徐々に登場人物を煮詰めていく・・
「王女様は国一番の美人でやさしくて・・そして魔法使いは
 元は王宮の騎士だったんだけれどもある日の事・・・」



ストーリィーとキャラクターの基本は
誰もが昔、幼い記憶の中で既に学んでいるのだ。





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漫画論(キャラクター編)その1


漫画を作るにあたって
最も重要な要素。

ご存知の通り
それがキャラクターです。



そして、それに対をなしているのが
ネタ(ストーリー)です。



キャラクターとストーリーのバランス次第で
その作品の性質が大きく変わってきます。





それはどういう意味か?


言葉を変えて言えば
ニュースとドキュメントと
言ってもいいかも知れません。





例えば、
遠いよその国で何かの事件があって
仮に小さい子供が不幸な目にあったというような
ニュースが流れたとします。

当然、相手が小さな子ですから
そのニュースを見た時
「かわいそうだな・・」と心が痛むでしょう。

しかし、
時を同じくして
例えば自分の知り合いの子供が
同じく不幸な目にあったらどうなるでしょう?

決して「かわいそうだな」レベルではすみません。
心は騒ぎ、憔悴、後悔、憤懣、憐憫と
様々な感情があふれ乱れた果てに
あなたは涙を流し、
その子の成仏を心から祈るでしょう。





知らない子と知ってる子との違いだと
言ってしまえば、それまでですが。



実は今、申し上げた
「知ってる」
という事こそが重要なのです。





改めて漫画を読むと
あなたは自分の好きな作品の主人公の事を

あなた自身、
まるで他人に自分の友人を紹介するような感覚で
彼ら彼女らを語れませんか?

つまり、あなたはその主人公を
人に語れるほど熟知してると言う事です。

そのキャラクターの過去の人生までは 完全には
知らないけどその人となりや性格だけは把握している。

これは、現実の友人や親友と言える人にも
当てはまる事ですよねw


では、この
「性格」と「人生」というキーワードを
「キャラクター」と「ストーリー」に置き換え
そのバランスを見た時・・・


例としてですが

例えば、いわゆる名作と言われてる作品で。

映画なら「ローマの休日」「7人の侍」「猿の惑星」

小説なら「罪と罰」「人間失格」「にごりえ」 等を
読んだ、またはご覧になった方がいるでしょう。
(見た事がないと言う方で漫画家を目指す方は
とりあえず名作と言われてるものは見ておくようにしましょうw)



では、これらの作品を見た事がある方で
各作品の主人公の名前を言える方はどのくらいいるでしょうか?


たぶん、ストーリーは言えても、主人公の名前が
案外出てこないのではないでしょうか?


では、逆に漫画ではどうでしょう?



「ドラゴンボール」「スラムダンク」「巨人の星」

主人公で名前の出てこない作品はありますか?



しかし、先週のジャンプで
「ナルト」はどんなストーリーだったかを
説明するのは、少し戸惑ったりしませんか?

「なんか、戦ってたと思うけど・・」的な感覚。




実は上記の例えはある意味極端な例でした。



映画にだって
すぐさま主人公の名前が言える
「ロッキー」「ハリーポッター」「パイレーツオブカリビアン」
等の作品があるし

小説にも
「シャーロックホームズ」「竜馬がいく」「銀河鉄道の夜」等
すんなり主人公が出てくる作品もたくさんあります。



しかし、漫画の場合に比べその比重が圧倒的に違うのです。







漫画で、主人公の名前が言えない作品は
本当に少ないのです。




つまり、漫画とその他の表現媒体と比べた時
キャラクターとストーリーのバランスが全く違う。
だから、漫画は主人公の名前が
タイトルになってるものが多い訳です。


逆説的に言えば
昨今の映画等で主人公の魅力に焦点を当てた作品は
漫画的作り方ともいえます。




しかし、
たまに、新人さんの原稿を見た時



その作品において彼ら、彼女らは
ともかく設定に時間をかけ、壮大な世界観を構築して


「宇宙暦3002年地球連邦は銀河系全域に
 サイブロットと呼ばれる有機コンピューターを
 もとにした炭素型ヒューマノイドを派遣し・・
 なんたらかんたら・・」的な出だしから
スタートする作品を描かれる方がいます。


しかしながら、
これはよほど熟練したストーリーテラーでない限り
ほぼ、失敗に終わります。



何故かと言うと、よほど上手に
キャラクターを立たせないと設定の説明に
ページが割かれ、まるで
遠い国のニュースを聞かされてる
ような味気ないものになりがちだからです。



そう考えた場合、やはり
心を動かされる作品を目指すなら
漫画の基本はどこまでいっても

キャラクター」である!

と言わざるを得ないのです。


主人公を「知っている」と言う大きな比重を
作品に持たせる事で 身近な存在となった主人公と言う
最も大切な「キーワード」が 成立し、

そうして初めて、そのキャラクターに対する
追体験効果が生れ、読んでる側の人間の感情が揺り動かされる。
という、現象が起こるのです。



「キャラクターに命を吹き込む」
といったような表現がよくなされますが

そうした、命を感じさせるキャラクターが
生み出せるかどうかが最も重要な事と言え、
すべての漫画家がそれに日夜勤しんでると言っても
過言ではないでしょう。


そうした中から、ようやく生み出されていくのが
主人公を取り巻く環境であり設定なのです。



矢吹ジョーがなんかの拍子に

「サラリーマンになったとしたら」
「宇宙戦艦の戦闘員になったとしたら」
「タイムスリップして戦国時代に飛んだら」




どうです?どれも面白そうじゃないですか?
読みたくなりませんか?

主人公力が強ければ、設定は
まるでパラレルワールドのそれのように
面白い作品がいくつも生みだされるのではないでしょうか?






キャラクターはそれほど重要で大きな存在だと言う話でした。






漫画論(キャラクター編)その2に続く






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『常識との戦い』



まず例題を出します。

質問
「二つの物体を同時に落とした時、その物体は
 重さに関係なく、同時に地面に着地する?」

答え
「はい、それはガリレオ・ガリレイのピサの斜塔での
 落下実験で実証されています」



この例題は(問題と答え)
いわゆる一般常識と言われてるものです。


西暦1590年、ガリレオはピサの斜塔の7階から
重さ1ポンドと10ポンドの金属球を落とし、
金属球が同時に落ちるのを確認した。




と言うやつです。




しかし、

この一般常識と思われている話は2つの間違いがあります。


一つはこの実験を初めてやった人物はガリレオではなく
シモン・ステヴァンという人物。1585年に出された
彼の著作「力学上の著書」で重さの違う鉛の玉を30フィート
の高さから同時に落とした場合、殆んど同時に着地すると
言う内容が明記されている。


また、もう一つは
物体が同時に落ちる現象は「空気抵抗のない真空中に限る」
と言う事。地上では金属球と水鳥の羽は別々に落ちるが
真空中では同時に落ちる。


なんだか、漫画論だか物理の話だか
わからなくなってきましたが(笑)

ここで言いたいのは物理法則の話ではなく
一般論と現実のギャップの話。



では、いわゆる一般論と言うのは何か?

佐佐木的に大雑把に答えれば

[今現在より過去50年から100年くらいの間で
相当数の人が認知、認識化してる情報や思考法]

・・・と言ったら言い過ぎでしょうか?

歴史を見るとその差は歴然とします。
例えば・・

鎌倉時代は一所懸命に土地を守るが当たり前・・

江戸時代は主君の為に滅私奉公するのが常識で

戦争中は国の為に死んで行くのは当然であり、
一般常識とされていました。

現代の侍(サラリーマンの方々)はどうでしょう?

少し前までは、良い高校、いい大学に入っていい会社に就職、
そして一生、会社に忠義を尽くすってのが常識だった時代がありましたね

今となっては、会社そのものもどうなるかわからない時代だし、
そうなると「お金」か・・「家族」か・・それとも・・(笑)


ともかく、
一般常識とは移ろいながら、時代と共に
常に変転し変わっていくもの
諸行無常の響きありってヤツです
実際にこういった事(諸行無常)
そのものも一般常識
じゃないかと思う人が多いでしょう。

しかし、果たして、本当にそうなのか?

我々が「一般常識」という言葉を使う時
不変性や絶対性を本当に意識していないか?

一般常識とされているものが善であり
非常識とされた行いはすべて悪といった二元論で
思考してないか?


昔、
スポ根漫画(巨人の星やアタックNO1等)の時代
トレーニングにうさぎ跳びは必須だったし、
水も飲まずに練習するのが常識でした。

現在の人が当時にタイムスリップして
「そんなのは逆に体を痛めつけるだけだ!」
等と言ったらどうなるでしょう?

きっと彼はなんという非常識な事を言うやつかと
怪訝な目で見られるでしょうし(笑)
逆にこれが一般的で常識のあるトレーニング方法なんだと
食ってかかられる事があるかもしれません。

質問
「二つの物体を同時に落とした時、その物体は
 重さに関係なく、同時に地面に着地する?」
答え
「はい、それはガリレオ・ガリレイのピサの斜塔での
 落下実験で実証されています」


この質問と答えの中に発生してる
一般常識と現実のギャップ・・

これこそが作家が最も注意しなければならない
世の中を見る見方の基本の一つではないかと思います。



なぜなら・・




マンガの主人公たちは
一般常識の壁を打ちこわし
次々と新たな思考、考えを体現し挑戦し、
目の前の敵と戦っていきます。


実は彼らこそ
非常識であり、時には無常識と言っていいほどの
存在であり、

読者はその非常識から生まれる新しい
生き方に共感したり、否定したり、または
感動したりするわけです。


漫画家や作家は日常的に
これら一般論と現実のギャップを見つめつつ
新しい発想、テーマ、生き方を
模索していかなければいけません。

「非常識」

いい言葉ですよ。

そこには従来になかった
新しいモノが秘められてると言う事・・


「一般常識」と言う魔物に
勝たなければ、
新しい作品も生き方も何も生まれない。






以上

漫画的発想から見る一般論認識
『常識との戦い』

でした。








タグ : 漫画 佐佐木 あつし ロジック 常識

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